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 旭川市民劇場は1971年に設立し、旭川で良質の演劇を観賞し続けている会員制組織です。

目次


旭川市民劇場とは

シンボルマーク 旭川市民劇場は、北海道旭川市ですぐれた演劇を継続して観るために発足した会員制の演劇鑑賞団体です。
さまざまなジャンルの劇団の作品から、自分たちで選んだ珠玉の演劇公演を 一年間に全6回/2ステージ行っています。
1971年の発足以来北海道旭川市で市民の手による活動をつづけ、2016年に創立四十五周年を迎えました。



旭川市民劇場の目的

北海道旭川市
旭川市民劇場は、北海道旭川市で継続して演劇を鑑賞することを目的とします。
会員からの会費収入のみを財源として会の運営を行い、営利を目的としません。
「演劇を鑑賞する」ことを主軸に「会の運営に携わる」「仲間と芝居について語り合う」活動を通して会員の間にゆたかな人間関係が広がることをはかり、また、鑑賞を通して劇団の活動をささえることで、日本の演劇文化の発展に寄与することをめざします。

会の制度について

会員は、会費を支払うことによって年間全6回の例会(公演)をすべて鑑賞することができます。
また、公演とは別に開催される、俳優/作家/演出家などを招いての講演会やワークショップ、芝居に出演した俳優さんたちとの交流会などにも参加できます。
旭川市民劇場は、会員制・会費制によって会の財政を安定させ、将来にわたって会の存続を確かなものとすることで、劇団との長期的な信頼関係を築き、地方都市に公演を呼ぶことを実現しています。

活動の内容

旭川市民劇場は、公演の事前準備や当日の会場運営などを、すべて、会員による自主運営で行っています。サークルは、年6回の公演のうちいずれか1回の公演をえらんで、運営に参加します。
また、どのようなお芝居を観たいか、企画説明(幹事会が企画調査をして資料を作成)を実施して、各サークルの要望を反映して企画を決定します。

組織イメージ

会員は、原則としてサークル(3名以上のメンバーからなる会員のグループ)に所属します。
市民劇場には現在約1500人の会員がおり、事務局から会員一人一人への対応を行うことは困難なので、会費の納入、座席チケットの発行など、会の運営に関わることは、このサークル単位で管理します。各サークルにはサークル長(代表者)をおき、サークル長がサークルをとりまとめ、事務局と会員個人個人とを結びます。
サークルイメージ








会場案内

旭川市民劇場の公演を行う会場です >旭川市民文化会館 >旭川市公会堂

関連団体

これまでに公演を行った>劇団の一覧表
北海道内をはじめ、全国各地でさまざまな演劇鑑賞会が活動しています。> 全国の演劇鑑賞会へのリンク集

旭川市民劇場の思い

旭川市民劇場は、1971年に発足しました。2016年に四十五周年を迎え、創立以来の公演回数は290回を超え、 80を超える劇団とのつながりが生まれました。

今、演劇という文化全体を取りまく環境は、けっして良いものではありません。全国各地の市民演劇鑑賞団体 でも、メンバーの減少によって解散を余儀なくされた、という会がいくつもあります。
しかし、考えてみると、会が「解散」するということは、解散まで少なくとも「会の実体があった」すな わち「会員がいた」ということです。つまり、まだ会の中で燃えていた数百人の人の「地元で良いお芝居を 観たい!」という気持ちは、会がなくなることで、どこにも行き場をなくしてしまったのです。
旭川市民劇場の四十五年という分厚い歴史も、ひもといてみれば「旭川で良いお芝居を観たい!」という一人 ひとりの会員の思いの集まったものであり、それぞれのメンバーの尽力、劇団との協力によってそれが形に なったものです。
「良いお芝居をつくりたい!」と思う劇団と「良いお芝居を観たい!」と思う観客の気持ちをつなぎ、会員同士 の感動の気持ちをつなぎ、そして、未来の旭川で「良いお芝居を観たい!」と思い描くすべての人の気持ちを つなぐ場所であり続けることが、旭川市民劇場の役割であり、心からの願いです。

四十五年のあいだ、絶えることなく燃えつづけた灯火を守るために、今燃えている炎をかき消してしまわない ために、そして、これから先もずっと、新しいつぎの炎を灯しつづけるために。

時代の追い風は吹かないとしても、否、逆風の吹きつける時代であればこそ、劇団としっかり手を取りあい、 「旭川で良いお芝居を観たい!」と思うより多くの仲間と心を合わせ、劇場に集(つど)うすべての人の 思いをより良い形で実現できるよう、旭川市民劇場は活動を続けて行きたいと思っています。

機関誌『銅鑼』について

旭川市民劇場の機関誌『銅鑼』は、1971年9月に旭川勤労者演劇協議会(準備会)の第3回例会( 東京芸術座『どん底』)で創刊されました。2017年12月例会:劇団俳優座『七人の墓友』 が300号となります。
<機関誌名の『銅鑼』の由来>(銅鑼第2号から転載)
日本の新劇と呼ばれる演劇運動は、近代ヨーロッパ演劇を早急且つ完全な形での移植からはじまった。 だが小山内薫は「戯曲は文学である。文学の為に存在するのは新聞である、雑誌である。単行本である-- 印刷物である。文学の為に存在するのは演劇ではない。」と名作主義であった当時の新劇を批判し、土方与志 と共に築地小劇場の建設にのりだした。そして、商業演劇ではとうてい上演できそうもない、実験的な、 研究的な舞台芸術を試みたのである。
新劇の自律性を確立した意味で築地小劇場こそ日本の新劇の第一歩にふさわしい。 1924年6月13日、築地小劇場は、丸山定夫の打ち鳴らす最初の「銅鑼」の音と共にブドウのマークを付けた その幕をあげたのである。
銅鑼
この題字は当時の会員である遠藤博さんのデザインによるものです。

『銅鑼』の創刊号と第2号のPDFファイルを掲載します。旭川市民劇場の前身である 旭川勤労者演劇協議会(=旭川労演)草創期の空気を感じることができます。
なお各号とも約1MBのファイルサイズとなっていますので、携帯・スマートフォンで ご覧の方はご了承のうえでダウンロード願います。
  『銅鑼』第1号(1971年9月)
  『銅鑼』第2号(1972年2月)

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